Down by the salley gardensという歌を今日は何度も歌った。前にテレビで女性の歌手が歌っていて、そのまま忘れて、でもぼんやりした詩の内容となんとなくのメロディーを覚えていて、去年駅の近くのうつわ屋さんでかかっているのを、お店の人にタイトルを聞いたのだ。十年越しに再会。時々自分の中でエンドレスにかかる、エンドレスに歌いたくなる歌がある。何でも無いメロディーだけど、わたしの中の気持ちよいものが、わりとすんなり外に出てくるような、歌ってるとそんな気がする。身体の事をついおろそかにして、反省して、ゆがみを調整してもらって、リフレッシュかつ強烈に眠い状態で頼まれ仕事に向かい、その時自分が言った事とリンクしているのだが、今自分がいるこの空間全部が自分だと考えた時、一番奥の壁が自分の指先、こっちの隅が自分のつま先、この辺は大腸…とした時、この空間にいる6人の他人は、自分の中に内包されている自分の一部なのだ。それはつまりどういうことか、というのは脳の、知覚の入力の、まあ色んな言い方が出来るかもしれないけど、理屈じゃなくてファンタジー的なことでも何でも結構、そうだと仮定した時、そこにいる他人に、つまり内包された自分自身に、気を送る、愛情を送る、良い状態であったら良いと願う、それはなんだかとても良い事なんじゃないか、何か世界の秘密とちょっと繋がっている大切な事かもしれない、と今日、台所の窓から外を見て思った。気を送る、とセックスするは半分くらい要素がかぶっているように思う。難しいのはエゴの扱いだ。大抵のエゴは、どうも不満足からくるような気がする。わたしが個人的に引っかかっている問題がそこら辺にあって、どうしてもそこら辺でこだわってしまうのだけど、それは完全に個人的な問題なんだけど、だけどその辺りに、わたしがわたしの人生をシンプルにする、わたしがわたしからずれていかない為の何かがあるような気がする。エゴは他人を傷つける。どうしても傷つけてしまうのだ。だけど他人に対するあたたかい気持ちの中に、自分で気付かないまま小石のように混ざっていることもある。混ぜてしまうこともある。そうしない為に、エゴとは何であるかを追求するも方法、あるいは、あたたかい気持ちの純度を高めるも方法。自分が、自分の力を使って自分を満たしてあげられれば、他人に要素を依存する必要が無いから。エゴで他人の何かを手に入れようとしなくて済むから。逆を返せば、自分で自分を満たさない人は、他人の要素を潜在的に手に入れようとしてしまうのかもしれない。ここにわたしの、最高に個人的な問題だが、わたしの親子の問題が多分、ある。こういう問題を持たない人が心の底から羨ましいと思ってしまうが、三十年積もり積もった、愛情、の中に混ざったエゴの小石で、わたしの健康な肉体の半分くらいは千切り取れてしまっただろう、そしてその今残っている半分の肉体と、半分剥き出しになってしまった魂がわたしの財産なのだ、大きな、本当に大きな。そしてそれだけが。わたしの人生にそれが起こるということが、わたしの大切な課題だったのだ。わたしには親に対する恨みのようなものと、団塊の世代に対するざっくりとした恨みのようなものがあって、それは今自分のいる、すっぽりと包まれている社会で起きていることを、単に対象を恨む代わりに、外側から眺めてみる為のツールにすることも出来るのだ。その彼らの共有している価値観を。自分の中の彼らに洗脳されているエリアを。それはわたしにとって、とても重要な事なのだ。経済が、便利さが、カルトが、環境破壊が、エコロジーが、医学が、バブルが、ローンが、スピリチュアルが、ワイドショーが、人間の一代の間、50~70年くらいの間に起きたあっという間に出来上がったシステムが、人の持つ弱さと結託して、エゴとエゴの強烈なやりとりが日常の社会にしてしまったのだ。でも本当は皆どこかで知っていて、命が救われるような瞬間、何か自分の人生が大きくプラスに動き始める瞬間なんかは、本当は他人からの純粋な、ただくれるだけの気持ちが中心にあるということを分かっている。幸せな生活って何ですか?働くって何ですか?働かない生き方、ニート、無職、それがムーブメントを作るくらいにムーブしているように見えるけど、それは、エゴはあなたを傷つけるんですよ結局、という事によるような気がする。そして多分、エゴで手に入れたものは、本当にはあなたのものにならない。
Down by the salley gardensという歌を今日は何度も歌った。前にテレビで女性の歌手が歌っていて、そのまま忘れて、でもぼんやりした詩の内容となんとなくのメロディーを覚えていて、去年駅の近くのうつわ屋さんでかかっているのを、お店の人にタイトルを聞いたのだ。十年越しに再会。時々自分の中でエンドレスにかかる、エンドレスに歌いたくなる歌がある。何でも無いメロディーだけど、わたしの中の気持ちよいものが、わりとすんなり外に出てくるような、歌ってるとそんな気がする。身体の事をついおろそかにして、反省して、ゆがみを調整してもらって、リフレッシュかつ強烈に眠い状態で頼まれ仕事に向かい、その時自分が言った事とリンクしているのだが、今自分がいるこの空間全部が自分だと考えた時、一番奥の壁が自分の指先、こっちの隅が自分のつま先、この辺は大腸…とした時、この空間にいる6人の他人は、自分の中に内包されている自分の一部なのだ。それはつまりどういうことか、というのは脳の、知覚の入力の、まあ色んな言い方が出来るかもしれないけど、理屈じゃなくてファンタジー的なことでも何でも結構、そうだと仮定した時、そこにいる他人に、つまり内包された自分自身に、気を送る、愛情を送る、良い状態であったら良いと願う、それはなんだかとても良い事なんじゃないか、何か世界の秘密とちょっと繋がっている大切な事かもしれない、と今日、台所の窓から外を見て思った。気を送る、とセックスするは半分くらい要素がかぶっているように思う。難しいのはエゴの扱いだ。大抵のエゴは、どうも不満足からくるような気がする。わたしが個人的に引っかかっている問題がそこら辺にあって、どうしてもそこら辺でこだわってしまうのだけど、それは完全に個人的な問題なんだけど、だけどその辺りに、わたしがわたしの人生をシンプルにする、わたしがわたしからずれていかない為の何かがあるような気がする。エゴは他人を傷つける。どうしても傷つけてしまうのだ。だけど他人に対するあたたかい気持ちの中に、自分で気付かないまま小石のように混ざっていることもある。混ぜてしまうこともある。そうしない為に、エゴとは何であるかを追求するも方法、あるいは、あたたかい気持ちの純度を高めるも方法。自分が、自分の力を使って自分を満たしてあげられれば、他人に要素を依存する必要が無いから。エゴで他人の何かを手に入れようとしなくて済むから。逆を返せば、自分で自分を満たさない人は、他人の要素を潜在的に手に入れようとしてしまうのかもしれない。ここにわたしの、最高に個人的な問題だが、わたしの親子の問題が多分、ある。こういう問題を持たない人が心の底から羨ましいと思ってしまうが、三十年積もり積もった、愛情、の中に混ざったエゴの小石で、わたしの健康な肉体の半分くらいは千切り取れてしまっただろう、そしてその今残っている半分の肉体と、半分剥き出しになってしまった魂がわたしの財産なのだ、大きな、本当に大きな。そしてそれだけが。わたしの人生にそれが起こるということが、わたしの大切な課題だったのだ。わたしには親に対する恨みのようなものと、団塊の世代に対するざっくりとした恨みのようなものがあって、それは今自分のいる、すっぽりと包まれている社会で起きていることを、単に対象を恨む代わりに、外側から眺めてみる為のツールにすることも出来るのだ。その彼らの共有している価値観を。自分の中の彼らに洗脳されているエリアを。それはわたしにとって、とても重要な事なのだ。経済が、便利さが、カルトが、環境破壊が、エコロジーが、医学が、バブルが、ローンが、スピリチュアルが、ワイドショーが、人間の一代の間、50~70年くらいの間に起きたあっという間に出来上がったシステムが、人の持つ弱さと結託して、エゴとエゴの強烈なやりとりが日常の社会にしてしまったのだ。でも本当は皆どこかで知っていて、命が救われるような瞬間、何か自分の人生が大きくプラスに動き始める瞬間なんかは、本当は他人からの純粋な、ただくれるだけの気持ちが中心にあるということを分かっている。幸せな生活って何ですか?働くって何ですか?働かない生き方、ニート、無職、それがムーブメントを作るくらいにムーブしているように見えるけど、それは、エゴはあなたを傷つけるんですよ結局、という事によるような気がする。そして多分、エゴで手に入れたものは、本当にはあなたのものにならない。