ここ数日、家にいるとずっとインターネットをしてる。何か探しているみたいに。何人かの歌や話を聞く。今日見た一人一人の日本語をしゃべっているのを聞いて、こういう人が生まれるなんて日本って良い国だなあ、こんなに良い国だったら残した方がいいなあ、と思った。そして話を聞きながら色んな事を思い出した。わたしには、まるで何もしていないように立ち止まって悶々としている期間が時々来る。ただ何もせずに悶々としているような状態で、中ではすごい量の情報がガーっと整理されていて、答えが出るとチンと足を踏み出す。チンが来るのをただ信じて、ぼんやりと悶々している。こういう時に無理に仕事をしても、さっぱり質が悪いので、ピンクの夕焼けが奇麗だなあ、風が強いから、とか、お米が水を吸ってる可愛い音がする、とか、いつの間にか右手の指先を切っていて痛い、とか、適当にスコーンを焼いたりとか、頭がじんとして眠たい、誰かの呪いだろうか、とか、で過ごしている。ごまかしきれないものが、ごまかすべきでないくらいに立ち現れて、そうか、子供に戻るしかないのか、と思った。怖いけど、捨ててみよう、早く大人になろうとしてしまった部分。波風を立てるのが面倒だから物わかり良くして納得したつもりでいる部分。大きな声で泣いたけど誰も来てくれなかったので諦めた部分。理解されるのを諦めた部分。しつこく、駄々をこねて、自分が納得するまで、今までの処し方を捨てて、子供から始めよう。ラフにやったら楽しいかもしれない。辛い、悔しい、このままでいたくないと思いながら、状況が良くなってくると自分で足を引っ張るというサイクルが延々と続いて、いい加減、不幸でいるのに飽きた時、誰のせいでもない、今のこの状態以外に自分はいない、今自分がこうであること受け入れよう、そして自分が幸せになることを自分に許そう、と思った。それは自分にとって逃げ場を断つことであり、自分自身の責任を負うということでもあり、これまで何となくでも自分を生かしてくれたロジックを捨てることでもあり、いつでも最終的に不幸でいる自分に、この子に良い思いをさせてあげたいという愛であったと思う。と、これに似たようなことをインターネットで見つけた女性のアーティストが喋っているのを聞いていて、他人と思えないくらいに良く分かった。わたしの中にあったものが、しゅうっと彼女の言葉に落ち着いた。ああ、これを探してたのかな、と思った。表現する人の表現することの動機に、自己肯定感の弱さはとても大きい動機になる。怒れ怒れ、憎め、わたしは要らない人間なんです、そのネガティブなエネルギーが表現を支え、ネガティブな表現がアイデンティティになる。仲間が出来る。痛みを持った自分を痛みを持ったままの自分で受け入れてもらえる。安心。心地の良い事。でも痛みを持った者同士の仲間は時に、痛みがあるからこそ激しく深く傷つけ合うこともある。本当はずっと不幸なままでいたくない。苦しい思いを手放したい、振り回されずに心が安らぐ他人との関係を築きたい。でもネガティブなエネルギーが自分の中から無くなってしまうと、同時にアイデンティティをも失うことになるのではないかという恐怖もある。仲間を失う。自分が何者でも無くなってしまう。自分に何も無くなってしまう。作品が作れない。収入源が無くなる。だからしがみついてしまう。大事に持ち続けてしまう。自分を苦しめるものを。怒りも憎しみも無くなって、作品を表現する動機も無くなった何者でもないもの、それが自分、それが代わりのないエリア、それは他の何かに代われない、だから、自分が何者でなくても、無名の、そこにあるひとりぽっちの魂をまず自分が愛してあげるしかない。毎日きれいな水を注ぐように、身体の深いところが求めている要求に、丁寧に応えなくてはいけない。丁寧な食事をとって、巡りのいい身体で、いい環境を与えて、いい気を入れて、慈しみ、要らない物を解放し、要るものを毎日、注ぎ続ける、とっても手間がかかる。時間がかかる。そうやって自分に愛を与える、そうするとだんだん気付いて行く、自分を守るものが、自分だけでなく増えていく、人や人じゃないものや、丁寧に育んだ自分の身体や感性や直感が守ってくれる。そうやって自分自身を生きる。自分を肯定するように、他人の何者でもない魂を肯定しようと思う。愛を伝えたいと思う。そこではたくさんのものが繋がっている。どんな人も、表現しているのは生き方そのものなのだ。その人の価値観、大切にしたもの、捨てたもの、他人に見せられるものはそれ以外にないのだ。アートでもスポーツでも、多分何でも。