自分についてどんどんわかっていくのが楽しい。特に、自分でハンドル出来ない感情が湧いてくるとき。本当はもっと大人しくしてて欲しい、もっと建設的になって欲しい、優しい方が良い、と思っても、なんでスティックしてるのかも分からないので、勝手に湧く感情を、しばらく湧いたままにしておく。どこからその感情が来てるのか、最初は分からないのだけど、分からないときは、感情が生まれているエリアについて意識化するにはツールが足りないのだ。家にいてツールを探す時もある。外に出て探しに行くときもある。手に入るとなぜ、ある体験が自分のこの感情を引き出したのか、何が、どの観念と繋がったのか、分かってくる。意識には大体階層がある。よく出やすい感情が理解出来ると、その下のもっと深いメカニズムに関わる感情が生まれるようになり、出やすかったものはハンドル出来る感情になる。そしてそれが分かると、もっともっと、と深まって行く。ここが底かな?もう結構下の方まで来たな、と思うけど、解決したと思うそばから新しい反応が起きて、またツールを探しに行く。人との会話の中で見つける時もある。立ち読みした本に落ちてるときもある。思い出しもしなかった幼少期の記憶がある感情を生んでいることもある。自分で発見して、驚き、不思議に思う。楽しくない、自分をハッピーにしない反応は捨てて行く。捨てきったと思っていつまでもしがみついているときもある。でも基本的には捨てて行くプロセス。いらない認識、いらない価値観、これがここでこう機能して自分を作っていたんだな、と分かる。捨てて、そのキャリアを持つ前の自分に戻る。ちょっとずつちょっとずつ。感情を目印にして自分が今いる場所を計る。安心してる。焦ってる。快不快。憎しみ。感情と、わたし個人の個人的な体験とをフィードバックし続けていると、感情、が定義している現実がさほど現実としての重要度がないことに気付く。感情が把握している今現在の現状は、より高い視点から見たときAがBを苦しめていようが、BがAを苦しめていようが、同じ事なのだ。それぞれ出会う一人一人が違う事を考え、違う行動をし、細かいたくさんのことがそれぞれにあるように思っているけど、おーきくおーきく考えたら自分の周りの世界は、ある一つのことを言っているだけだったりする。ある考え、ある意識、ある感情にスティックするとき、そこには何かあるよ、そしてそこにあるものが分かるよ、もう向き合えるだけの力があるよ、というときで、それに真っ正面から(といっても基本は放っておくだけなんだけど)扱う、そして向き合って理解されたひとつ分、解放された、少しだけ広いところに進む。世界は少しだけ変わった別のものになる。いらないフィルターを捨て、そこにまつわる思考回路とロジックを捨て、新しい思考回路と感性で捉え直した世界。そう。無意識の方がわたしのことを良く知っている。魂と肉体の境目みたいなところに感情はあるような気がする。無意識のことをわたしに分かる形で伝えてくれるのが感情なのだ。多分、本当に多分だけど、わたしの無意識のそれよりもっと無意識のあたりでは、わたしの人生がこうなってこうなる、というのを全部知っていると思う。わたし自身はまだ全然分かってないけど、いらないフィルターを捨てて行く過程で、だんだん近づいて、それが何か分かって行く。それでもってわたしが幸せなのは、それら全部のプロセスを一緒に味わってくれる、無意識の無意識が知っていることに近づいて行くことを喜んでくれるパートナーがいて、それを続けている自分が守られている実感があるってことです。
自分についてどんどんわかっていくのが楽しい。特に、自分でハンドル出来ない感情が湧いてくるとき。本当はもっと大人しくしてて欲しい、もっと建設的になって欲しい、優しい方が良い、と思っても、なんでスティックしてるのかも分からないので、勝手に湧く感情を、しばらく湧いたままにしておく。どこからその感情が来てるのか、最初は分からないのだけど、分からないときは、感情が生まれているエリアについて意識化するにはツールが足りないのだ。家にいてツールを探す時もある。外に出て探しに行くときもある。手に入るとなぜ、ある体験が自分のこの感情を引き出したのか、何が、どの観念と繋がったのか、分かってくる。意識には大体階層がある。よく出やすい感情が理解出来ると、その下のもっと深いメカニズムに関わる感情が生まれるようになり、出やすかったものはハンドル出来る感情になる。そしてそれが分かると、もっともっと、と深まって行く。ここが底かな?もう結構下の方まで来たな、と思うけど、解決したと思うそばから新しい反応が起きて、またツールを探しに行く。人との会話の中で見つける時もある。立ち読みした本に落ちてるときもある。思い出しもしなかった幼少期の記憶がある感情を生んでいることもある。自分で発見して、驚き、不思議に思う。楽しくない、自分をハッピーにしない反応は捨てて行く。捨てきったと思っていつまでもしがみついているときもある。でも基本的には捨てて行くプロセス。いらない認識、いらない価値観、これがここでこう機能して自分を作っていたんだな、と分かる。捨てて、そのキャリアを持つ前の自分に戻る。ちょっとずつちょっとずつ。感情を目印にして自分が今いる場所を計る。安心してる。焦ってる。快不快。憎しみ。感情と、わたし個人の個人的な体験とをフィードバックし続けていると、感情、が定義している現実がさほど現実としての重要度がないことに気付く。感情が把握している今現在の現状は、より高い視点から見たときAがBを苦しめていようが、BがAを苦しめていようが、同じ事なのだ。それぞれ出会う一人一人が違う事を考え、違う行動をし、細かいたくさんのことがそれぞれにあるように思っているけど、おーきくおーきく考えたら自分の周りの世界は、ある一つのことを言っているだけだったりする。ある考え、ある意識、ある感情にスティックするとき、そこには何かあるよ、そしてそこにあるものが分かるよ、もう向き合えるだけの力があるよ、というときで、それに真っ正面から(といっても基本は放っておくだけなんだけど)扱う、そして向き合って理解されたひとつ分、解放された、少しだけ広いところに進む。世界は少しだけ変わった別のものになる。いらないフィルターを捨て、そこにまつわる思考回路とロジックを捨て、新しい思考回路と感性で捉え直した世界。そう。無意識の方がわたしのことを良く知っている。魂と肉体の境目みたいなところに感情はあるような気がする。無意識のことをわたしに分かる形で伝えてくれるのが感情なのだ。多分、本当に多分だけど、わたしの無意識のそれよりもっと無意識のあたりでは、わたしの人生がこうなってこうなる、というのを全部知っていると思う。わたし自身はまだ全然分かってないけど、いらないフィルターを捨てて行く過程で、だんだん近づいて、それが何か分かって行く。それでもってわたしが幸せなのは、それら全部のプロセスを一緒に味わってくれる、無意識の無意識が知っていることに近づいて行くことを喜んでくれるパートナーがいて、それを続けている自分が守られている実感があるってことです。
