| 20130501 |


 なんかほっとする。整体行って、誉めてもらって、今後の頑張る点を教わって、もらってるのは愛情なんだなあと思う。意識が、ある時間のある経験に捕われたままでいるとき、目の前の景色が入ってこない。新しい気分が入ってこない。とても居心地が悪くて生きづらい。どんどんこだわりから解放されて、一日一秒でも多く、心が飛び回りたいように好きに飛び回るのが幸せかな。見たい物を見て望む現実を生きている。誰を見てもそうとしか思えない。でも世代によって、『世界はこういう場所です』、という洗脳の強さは違うみたいだな、自分を縛っているものに、他人も同じように縛られていると思っているみたいだな、もしくは『仕事とはこういうものです』。その檻は自分にしか壊せないが、壊すも壊さないも自由だ。役者の知り合いのブログを見つけて、声に出したい文章を書けるっていうのも、また力強い、魅力的な能力だなあと感じる。不思議ね。文章の内容から分かるその人のことなんて本当に本当にわずかなのに、五十音の組み合わせでこんなに人によって違いを感じるものもない。わたしは、歳の近い芝居に可能性を見つけた友人たちに家に来て欲しいよ。そしてみんなで幸せを分かち合いたいよ。知り合ったとき、わたしもみんなも、若くて元気な粒つぶみたいだったよ、今みんな揃って三十路だよ。同じものつくりでも、アートの人達と比べて生活に関わるものを作る人達は、生活、生、に圧倒的な肯定感が違う。うつわや、布を織る事や、革を加工する事・・・そういう作家さん方の日々の営みの、衣食住にまつわる色々が、わたしと年齢もそう変わらない方々の、もうとってもポジティブに光り輝いている日常は、生き様は、紫綬褒章もんだと思います。目に見えないエネルギーのやりとりが、言葉のやりとり以上に、常に、行われていることにどんどんリアリティが増して行って、気付かずに受け取っているものや、気付かずに渡してしまっているものに、もっと気を付けなくてはいけないなあと思いました。今や芝居は、あるいはアートの一部も、ネガティビティを具体化することをやりすぎて、やってる人が幸せになるにはすごく大きな視点がいるような気がする。劇場の隅にほこりが溜まってるとか、舞台の裏にガラクタが雑然としているとか、陽に当たらない換気も出来ない場所とか、何年も誰も触ってないものとか、そういうのって発してるんだなあ、じと~じと~と、非肯定感を。受け取ったネガティビティを身体の外に出すのも、なかなか時間がかかるもんです。旦那さんと一日中けんかして、手を取り合って、好きなのに、仲良くしたいのに、もうやめよう、と言ってるそばからイライラの種がどんどん、もはや自分の意志とは関係なく口からこぼれて、一日の最後に、胃に愉気してくれて、そしたら胃の中いっぱいに不快、怒り、恐怖、苦しい苦しい・・・というのが溢れて叫びたいくらいで、これは・・・昨日美味しい美味しいって都心の公園で食べた、テイクアウトのハンバーガーに入っていた、アメリカ産牛肉に使われた抗生物質じゃないか・・・と。ま、もちろん、どこにも一つも確証は無いですよ。気のせいですよ。というか気のせいが重要なんですよ。その後色々調べたら、ちゃんと、抗生物質使わずに育てたお肉を売ってるお店が近所にありまして、ちゃんとしてる人はちゃんとしてるんだなあ、と思う。ずっと元気な粒つぶでいたいよ。みんなが持ってる光の、人を魅きつける力は、身体を使ってイマジネーションを具体化する創造力は、価値がつけられないわたし達の財産なのに。みんな、お金に負けずに自分を肯定してくれ。わたしも頑張る。そして一緒にテーブルを囲もう。幸せを分かち合おう。