日がなゆっくりのんびり勉強する。最近は遺伝子について。近年こんなに集中して勉強した事なんてなかったと思うくらい、でもすればする程世界については知らない事ばっかりだ。遺伝子のことにまつわって見ている、古い遺伝子を持った民族の写真が、そこに写る人々が、本当に美しい。見ていると、心の深い所に届くような、不思議な安心感を持つ。日本人はまれに見るくらいの古い遺伝子を持った民族らしい。そして人類皆兄弟というけれど、遺伝子的に見れば、全ての人種は、違うという程は変わらないという事を知って驚く。人の本質ってなんだろう。遺伝子によって受け継がれるものってなんだろう。何か統計立てて考える程にはまだまだ至って無いけれど、民族や国境や時間を超えて共有しているものが、はっきりとある、それは目の前の現実の中に存在していて、実はいつも見ているものなのじゃないのか、日本人と共通の祖先を持つ美しい少数民族の写真を見ると、わたしの中の遺伝子が記憶しているものが震えて、そんな気がするのかもしれない。先日、生まれて初めて田植えを経験しました。おたまじゃくしが沢山いて、可愛いカエルも触りました。菅笠と早乙女の着物まで借りて、これが実に快適。そこは耕作放棄された農地を、あるNPOと地元の中学生が手作業で少しずつ田んぼに戻して、以前のような豊かな生態系に戻そうとしているところでした。彼らの多岐にわたる活動を知り、特に子供にとって、周りの環境の生態系が豊かである事の意味の重さは、本当に良く考えたら本当はすごいことだと、今まで気付かずにいたことに気付いた。彼らの活動の結果起こっていることは彼らの持つビジョンに由来するものなのだけれど、それを共有しているとても若い人達の精神のあり方に、今までの社会のあり方と全く違う質のものが生まれて動いているのを感じた。近代社会における「美」は嘘だからね。パッケージ化された商品だ。今年、一般市民のボーナスが上がったかもしれない、でもお父ちゃんが買って来た焼き肉がサラ金で手に入れたものだとしたら、本当に嬉しいだろうか。本当の喜びに繋がらない嘘で既にがんじがらめになっているのじゃないか。だけど、そんなことを口先でつぶやくわたしのしていることは、彼らのように、実際に身体を動かして、汗をかいて、時間をかけて対話をすることに比べたら、パンに塗るジャムのようなものだ。さっき思い出したのだけど、中学生の時の地理の若い女性の先生がとても魅力的な話をよくしてくれて、その中で忘れられないのがトゥアレグ族の話だ。アフリカの砂漠地帯をラクダに乗って遊牧する少数民族の彼らは、排他的で誇り高く他の民族とほとんど接触を持たない。近親婚があるため、ものすごい美男美女が生まれることがあり、藍で染めた衣装で目以外の殆どを覆っていて、その藍が身体に染み付いて肌を青光りさせ、それはとても美しいのだ、と。見て来たように話していたけど、色んな国に行っている先生だったから本当に見て来たのかもしれない。時々、風邪をひいたみたいに自己肯定感が下がる時がある。最近は、食べたものがきっかけになっているように感じることが多い。不安、孤独感、寂しい…こういう精神状態の不安定な変化は、最近は薬品と関係あるような気がしている。都会に住む、自分を含めた人間の精神的な脆さ、と、それが脆くない人達の目、身体、美的感覚。ちゃんと歳をとるというのは、本当に本当に美しいことだ。伝統の中にある美しさは取って代わるもののないものだ。文明を受け入れなかったことで持ち続けたもの、能力、機能、世界観、存在の圧倒的な説得力。今まで知らずにいた見た事も聞いた事も無かった少数民族達、その世界、それと比べると、わたしが今住んでいる世界がどれだけ、生き物として豊かな力を削ぐように出来ているか、地球が与える生物同士の一体感を、どれだけ無価値と思うように出来ているか、を思う。先日、太極拳を教わりに行きました。自分の声で、自分の感性で、自分の眉毛で、自分のほくろで、自分の骨格で、自分の体質で、他人の足で歩く訳には行かない、他人の内蔵で食べる訳には行かない、自分の身体が、その場を体験する、その中に作られて行くものが美しいのに、そこに比べられない価値があるのに、モデルは外側にあるのじゃないのに。少数民族の人達の写真を見て本当に美しいと思ったとき、わたしの周りには美しいと思わされているモデルがあることに初めてはっきりと気が付いた。そしてそのモデルを美しいと思わせている主体がいることにも。人を自然に生きる生き物として考えたとき、美しい、と思わされているものの中で、本当に美しいものは、実際には限りなく少ない。
日がなゆっくりのんびり勉強する。最近は遺伝子について。近年こんなに集中して勉強した事なんてなかったと思うくらい、でもすればする程世界については知らない事ばっかりだ。遺伝子のことにまつわって見ている、古い遺伝子を持った民族の写真が、そこに写る人々が、本当に美しい。見ていると、心の深い所に届くような、不思議な安心感を持つ。日本人はまれに見るくらいの古い遺伝子を持った民族らしい。そして人類皆兄弟というけれど、遺伝子的に見れば、全ての人種は、違うという程は変わらないという事を知って驚く。人の本質ってなんだろう。遺伝子によって受け継がれるものってなんだろう。何か統計立てて考える程にはまだまだ至って無いけれど、民族や国境や時間を超えて共有しているものが、はっきりとある、それは目の前の現実の中に存在していて、実はいつも見ているものなのじゃないのか、日本人と共通の祖先を持つ美しい少数民族の写真を見ると、わたしの中の遺伝子が記憶しているものが震えて、そんな気がするのかもしれない。先日、生まれて初めて田植えを経験しました。おたまじゃくしが沢山いて、可愛いカエルも触りました。菅笠と早乙女の着物まで借りて、これが実に快適。そこは耕作放棄された農地を、あるNPOと地元の中学生が手作業で少しずつ田んぼに戻して、以前のような豊かな生態系に戻そうとしているところでした。彼らの多岐にわたる活動を知り、特に子供にとって、周りの環境の生態系が豊かである事の意味の重さは、本当に良く考えたら本当はすごいことだと、今まで気付かずにいたことに気付いた。彼らの活動の結果起こっていることは彼らの持つビジョンに由来するものなのだけれど、それを共有しているとても若い人達の精神のあり方に、今までの社会のあり方と全く違う質のものが生まれて動いているのを感じた。近代社会における「美」は嘘だからね。パッケージ化された商品だ。今年、一般市民のボーナスが上がったかもしれない、でもお父ちゃんが買って来た焼き肉がサラ金で手に入れたものだとしたら、本当に嬉しいだろうか。本当の喜びに繋がらない嘘で既にがんじがらめになっているのじゃないか。だけど、そんなことを口先でつぶやくわたしのしていることは、彼らのように、実際に身体を動かして、汗をかいて、時間をかけて対話をすることに比べたら、パンに塗るジャムのようなものだ。さっき思い出したのだけど、中学生の時の地理の若い女性の先生がとても魅力的な話をよくしてくれて、その中で忘れられないのがトゥアレグ族の話だ。アフリカの砂漠地帯をラクダに乗って遊牧する少数民族の彼らは、排他的で誇り高く他の民族とほとんど接触を持たない。近親婚があるため、ものすごい美男美女が生まれることがあり、藍で染めた衣装で目以外の殆どを覆っていて、その藍が身体に染み付いて肌を青光りさせ、それはとても美しいのだ、と。見て来たように話していたけど、色んな国に行っている先生だったから本当に見て来たのかもしれない。時々、風邪をひいたみたいに自己肯定感が下がる時がある。最近は、食べたものがきっかけになっているように感じることが多い。不安、孤独感、寂しい…こういう精神状態の不安定な変化は、最近は薬品と関係あるような気がしている。都会に住む、自分を含めた人間の精神的な脆さ、と、それが脆くない人達の目、身体、美的感覚。ちゃんと歳をとるというのは、本当に本当に美しいことだ。伝統の中にある美しさは取って代わるもののないものだ。文明を受け入れなかったことで持ち続けたもの、能力、機能、世界観、存在の圧倒的な説得力。今まで知らずにいた見た事も聞いた事も無かった少数民族達、その世界、それと比べると、わたしが今住んでいる世界がどれだけ、生き物として豊かな力を削ぐように出来ているか、地球が与える生物同士の一体感を、どれだけ無価値と思うように出来ているか、を思う。先日、太極拳を教わりに行きました。自分の声で、自分の感性で、自分の眉毛で、自分のほくろで、自分の骨格で、自分の体質で、他人の足で歩く訳には行かない、他人の内蔵で食べる訳には行かない、自分の身体が、その場を体験する、その中に作られて行くものが美しいのに、そこに比べられない価値があるのに、モデルは外側にあるのじゃないのに。少数民族の人達の写真を見て本当に美しいと思ったとき、わたしの周りには美しいと思わされているモデルがあることに初めてはっきりと気が付いた。そしてそのモデルを美しいと思わせている主体がいることにも。人を自然に生きる生き物として考えたとき、美しい、と思わされているものの中で、本当に美しいものは、実際には限りなく少ない。