曇りの朝の白熱灯。水と色が抜けて新しい美しさを持った紫陽花。どうして人は物語を欲するんだろう。ストーリー。自分が経験する以外の。沢山の人の沢山の意識。沢山のビジョン。苦しみは泳ぎ続けた腕にのしかかる波のように重たい。呼吸が浅くなり、視界が狭まっていく。ある時点で急に視点が変わる。少し高い所から自分のいた所を見下ろすように。もしも世界に、わたしという存在以外何も存在しなかったとしたら。わたし、はあなた、でも神、でも神のようなわたし、でも何でもいいのだけど、全て完璧の満たされた、究極の形で存在しているとしたら。しばらくすると飽きるだろう。そして、自分の人差し指の先を切り離してそこから自分のクローンを作る。何が起こるか客観的に見たいから自分は傍観出来るようにクローンは二つ作ろう。クローンに起きていることは自分と同じ脳だから良く分かる。作ったクローン同士に大きな違いを作るとどうなるか。相手の気持ちを完全に理解することが出来ないように脳に制限をつけたらどうなるだろうか。違いがある、理解出来ない、ということから何か未知の新しいことを体験するかも知れない。小さい身体と大きい身体だったら。黄色の身体と緑色の身体だったら。違う言葉を話していたら。強い者と弱い者だったら。男と女だったら。肉体を使って、愛し合う事も殺し合う事も出来る。肉体は絶対的な境界線だ、肉体がある限り、どんなに愛し合っても一つにならないし、強い憎しみを持って相手に手を突き出せば、交わらずに身体が傷む。さあ目の前の身体という境目を持った者達は何をするだろう。肉体を限りあるものにしたら、何を感じるだろう。そこで起こるそれぞれの人物のそれぞれの経験は、神的存在であるわたし(でもあなたでも)に全て伝わってくる。『es』という映画にもなった、スタンフォード監獄実験というのがある。これは神的わたしが知りたかったことを知る試みのごくごく縮小された形で、同じものではないのか。実験の主催者は支配者と被支配者の心の経験を知りたかった。支配者と被支配者を配置した。ここで重要な事は、どちらのサイドも本当の体験をすることで、その自由意志を守る為に第三者は介入出来ない。だが縮尺を大きくすると、果たして大地に産み落とされた新しい肉体に宿る心は、他の全てのものとの一体感から切り離された孤独なものとなる。自由さの為に。自由であることで本当の体験を経験するために。そして同時に、違う経験をする為に生み出された全ての孤独な違うものは、一つのところからきた、同じものである。最近わたしが知りたくて知ろうとしている事があって、それを知ろうとしていると、上記のようなイメージが浮かんだ。見えないものが見えたり、感じたりする人は大昔からいて、でも今は、見えないものが見える人同士が世界の認識を共有して、ある世界観が出来つつあるように見える。わたしの興味はその中にある。でもわたしには見えないものを見る力はない。彼らが見て感じているものを言語によってわずかに理解した気になるだけだ。だけど、どれだけの事が明らかになり、わたしがどんなに正しく理解したとしても、しなくても、わたしがすべき事は変わらないし、わたしが出来ることも変わらない。このことはすごく大きな発見だ。わたしを生まれてすぐのわたしに戻すくらいの大きな発見だ。もしもわたしが、もっとスタイルが良かったら。モデルのように美しかったら。巨乳だったら。すごく太っていたら。目が見えなかったら。足を失ったら。最初から足が無かったら。同性愛者だったら。男だったら。途中から男になったら。子供を産んだら。子供を産めなかったら。子供を産まないことを選んだら。人を殺したら。殺し合いをさせられたら。皆全滅してひとりだけ生き残ったら。そしたらわたしはどう思うんだろう。どうやって生きて行くんだろう。それは単純な素朴な疑問だ。空を飛べたら。空を飛ぶみたいに水の中を泳げたら。アラスカに住んだら。アマゾンの秘境に住んだら。船乗りだったら。砂漠の遊牧民だったら。それらは、わたしにならなかった違う可能性によって既に経験されている。わたしが今使っている自分の身体を使い終わった後、わたしはきっと、世界のどこかにある全ての一生、全ての体験が集まっていることろに行って、そのプールに加わる。たった一つの、同じ物の無いわたしの経験した人生は、他の全ての一部であり、よって全てであるとも言える。他のストーリーを体験する為に、わたしたちは個になった。個としてのわたし達が作られた目的が、あらゆる全ての可能性と経験なのだから、そのわたし達が自分の別の可能性を知りたい、自分のとは違う物語を知りたいと思うのは当たり前のことなのかもしれない。一生をかけて自分一人分の人生しか感じる事が出来ない。わたしは、自分の目や耳や、身体や自分の脳を使った、完全に自分一人だけの感じ方でしか人生を体験することが出来ない。この世界に、孤独な肉体を持った魂の孤独さから、一時解放される為に、物語の効用。肉体の経験ではなく、魂の必要。幸せとはこつこつしたものだと思っています。いい食材が買えるちょっと遠くのスーパーにわざわざ行くみたいに。何人かの人が、近い将来お金の価値が暴落するとか、ハイパーインフレが起こるとか言っているけれど、わたしはその通り、そうなると思う。物の価値を考える、価値ある物に価値を見い出す、それは物に魂が宿るということだ。お金が紙屑になるかもしれない、そうなるだろう。でもそう考える自分の心を探ると、どうもわたしはそうなった方がいいと思っているみたいだ。それはとっても分かりやすい、自分の人生を支配するものは一つでも少ない方がいい、でなければ真実が見えづらくて仕様がないと。目が語る物がある、というのは一般的に言われていることではある、読み取る量は人によって様々だろうが、最近知ったことにはものすごい量の情報を目から読み取る人もいるそうである。目の美しさは、その人の魅力であると同時に、その人が自分自身にどれだけ嘘をつかなかったかも表わしているように思われる。子供の判断は純粋さゆえに間違っていない。自分の魂を痛めつけない方法を、いつもいつも選ぶのは大変な戦いだ。心を締め付けているロープを解くのはいつだって出来るのを、本当はどこかで知っている。本当は、フリーになった心が、リラックスして、幸せを感じたり熱くなったりして、そんな積み重ねがその人の最も基盤の自信になっていく、その自信が、最も強く魂を守るものになる。自分のことを考えるとそういう気がする。心はセンサーだ。身体はパートナー。ロープを解いて、今この瞬間が最も豊かな時間である為に必要なものは全て目の前に用意されている。あらゆる次元を巻き込んだ、どこからどこまでか範囲も分からない程のスケールの計画に、自分がその一部を構成する物として加わっていると思うと、その壮大さに目が眩む思いだ。だけどこれはわたしの答え。他の人と共有する為の答えじゃない。