3日前からずっとシュークリームが食べたくて、のんびりのんびり家のことやって、やっと出かける。調子が良かったらそのまま少し歩いて、街に行こう、本を買おうと思っていた。歩いて坂を下って、少し行ったところにあるパティスリー、そこでクロワッサンも買って、バス停を2つ分歩く。バス停の近くの遊歩道の椅子に腰掛けて、シュークリームを食べる。クロワッサンは街に着いたらコーヒーでも買って一緒に食べようと考える。随分前に友達のさらちゃんが撮った、カフェのクロワッサンとコーヒーの朝ご飯の写真を思い出して、栄養は無いけど完璧な朝ご飯…と思って羨ましくなったのをやりたかったのだ。コーヒーはきついから、カフェオレかな…とか。ほどなくバスは来て、駅に着く。時刻はもう夕方だった。車の通らない広い通りに面した、入ったことの無いカフェでソイラテをテイクアウトする。テイクアウトすると大抵、紙のカップにプラスチックの、飲み口が着いたフタが付いてるが、わたしはそれをいつも外す。フタをしたまま飲んで気づかない人が殆どだろうに、シンプルなラテアートが描かれていた。かわいい葉っぱが嬉しかった。そして、飲んで、「あ、苦い、濃い、これはだめだ…」と思った。これ、ちゃんとエスプレッソをラテにしたやつだ、そして微妙に豆も酸化している。妊婦だが、わたしはカフェイン自体はそんなに神経質に考えていない。毎日飲まないし、沢山飲まないから。でも妊婦だろうと無かろうと、新鮮な良い豆を美味しく入れたら、コーヒーはすてきな飲み物だけど、そうでないならただの害ある刺激物だ。久しぶりのエスプレッソ成分はわたしの胃をばりばり行進していった。自転車に乗った可愛い女の子二人が、わたしの後ろを見て「きれいな色」と言って通り過ぎていった。振り返って、色んな色のチューリップがきれいに植えられているのを見ながら、ゆっくりゆっくりソイラテを飲み、クロワッサンを食べた。残す、という選択ももちろんあり得たけど、全部飲んだ。そして買ったお店でカップを捨ててもらえるか聞いてみようと、もう一度カウンターに行くと、接客のお姉さんは他のお客さんの相手をしていて、奥に居た、わたしのソイラテを作ってくれたバリスタの男の子が、「そこに置いておいてください!」と、ぱあっ!と光が発散されているかのような、ぴかぴかの笑顔で言って、わたしのところにすっと一直線に、他人が知らない他人に与えられるきれいなものが届いた。そうかあ、今日はこれを受け取りに来たのかあ、と思った。そして本屋さんに行った。先週別の本屋で気になった本が、やっぱり気になって、それを買うのが一番の目的だった、のだが、そこにはまっすぐに行かずに話題の本のところで立ち止まり、最初に手に取ったのが絵本だった。広い店内をてくてく歩いても、今までの自分が読みたそうな本より、子供の本が気になる。これって巣作り本能なのかな…?絵本は途中から予想外の展開をして、少し面白かった。絵を描いているのは知ってる漫画家だったのに、何となくプロフィールを見たら最新作が自伝的作品、というのを見て、気になって、気になる方向に向かって矢印が差してる、逆らわずに買おう、と自伝的作品を1冊カゴに入れた。そして目当ての本を見つけ、その近くでベビーニットの本を見つけ、欲しかったけどなかなかピンとくるベビーニットの本が無かったのに、その本のかわいさにはきゅんとなって、計3冊買った。このかわいい本と会う為に、前回いいと思った本を買わずに帰ったのか、と思ったりした。でも一応、他にもっといいのがあるかどうか真剣に比較したりして、あんまり集中して過ごしたので、帰る頃にはくらくらしていた。しまったなあ、自分が新しい状態だから、今までなかったチャンネルが開いている分、入ってくる情報が自分で思っているより膨大なのだ。ナチュラルハウスでレタスといよかんだけ買って、休み休み帰る。家に着くと、「なんか頭が冴えてるけど、このまま起きてるとまずいな…」と思って、すぐ着替えて布団に入った。横になったら大人しくしていた胃の刺激が再燃して、胃痛にもだえる。ばかだなあ、全部飲んで。もっと敏感だったら買う前に気づけるのになあ。1時間くらいかけて、胃を通り過ぎ、ソイラテが膀胱でおしっこになった!と感じたとき、胃の痛みも10分の1くらいになっていて、「身体ってすごいな~、ありがとう、ごめんね」と言い、なんだか、間違った判断のせいで苦しむことまで含めて、自分が失敗したりするのがかわいいことのように思えた。今まであまり感じた事の無い安心感があって、大丈夫、わたしの身体、なんとかしてくれる、間違えることまで許されてるんだな、いいな、と思った。街から帰る為のバスを待っているとき、なんだか1回死んで、今おまけの人生を生きている、みたいな、自由な感じがした。そしてどうしてだか、『世界は自分の反映である』という色んな人がそれぞれの言葉で言っているそのような意味のことが、すっと腑に落ちた。自分が発していることのまったく同じ何かを、瞬時か時差があるかは色々だけど受け取っていて、それが自分のいる世界の全てだと。だけどそういう仕組み自体が、それを作った神様みたいなものの愛みたいなもので、すっぽり全てを包まれた状態で、自分の発した全てを受け取っている、それがどんなものでも許されている、愛故に、と思えた。自分が何ものでもない、在るようにしか在れない、こうでなきゃいけないと考える物が何も無いような、心地よい、自由さ。わたしは1回死んだだけじゃなくて、もしかしたら小さいレベルでは、しばしば部分的に死んで、新しく生まれ直してるのかもしれない。隣でバスを待つ男の人からツンとした汗の匂いがした。わたしは本質が見たいんだ!それが生きている間に見たいものなんだ。体臭とか、むだ毛の毛の流れ方とか、その人がその人であるどうしようもなさみたいなものが、本質と同じく変えようの無い、ニュートラルを超えて愛おしいもののような感じすらした。前の日にYくん(旦那さん)と、「子供が生まれたら、親のエゴである方向に方向付けようとするのだけは止めようね」と言い合った。そうならないように、お互いを見ていようね、それは魂の形を歪めるから。自分がそれをしたくないということを知る、ということが、わたしが見つけたかった世界との約束だった。わたしの全部は意味があったんだ。今までの自分に起こった、どうして起きたのか分からなかった全ての事は、この為にあったんだ。「この」が何なのか、それは言葉で説明は出来ないのだけれど、言葉にならない、理解を超えた次元で納得していた。朝、布団の中から、壁に朝焼けのオレンジの光が小さく映っているのを見ながら、ひとりだけで泣いた。じんわりとでなく、喉が痙攣するくらい泣いた。全部に意味があった事が分かった事が、何度も繰り返し泣けるほど、たまらなく嬉しかった。