想いの塊。別個の命。不思議な感じ。言葉にならない。新しい肉体を育てつつある。あたりまえのように途切れず繰り返されてきたこと。変わっていく身体の形。創り出し、生み出す機能。妊娠してからというもの、わたしは遠ざけていた社会一般の価値観と再び関わることになり、それが自分のそれといかにずれているかを思い知るのは、またそれを摺り合わせる必要があるのかどうか吟味するのは、修行のように苦しいものだった。テレビや雑誌で人々に共有されている世界観が、少なくともわたし自身の魂の在り方とずれている時、それは他人と関わらなければ何も問題はないのだけど、『新しい子供の命』という誰のものか分からないものが間に存在すると、複数の価値観が(基本的には善意を持って)わたし個人に介入してくるようになる。今朝夢を見た。架空の世界で、そこでは食物の生産過程が全て科学によって完全に制御されていて、巨大な国営のプランテーションに遺伝子を組み替えた作物、叡智の先端の栽培法、農薬、肥料、完全に整った等品質の管理された安全な食品の安定した供給、しかし何故か、そこで生まれる子供たちにはどんどん病気が増えていく。子供たちは子供ばかりの巨大な病院で暮らし、治療を受けるも病気は一向に減らない中、食べ物が食べられないという新しい症状をもつ子供が増え始める。小麦、穀物、野菜、果物、乳製品、それらの一部あるいは全部に、摂取すると発疹や麻痺を起こし、呼吸困難で死に至る場合もある。彼らは食物から栄養を取れないので、生涯にわたり点滴とサプリメントからの栄養摂取になり、十分に成長出来ずに短い生涯を終える。子供が生きられない国。それは滅亡に至る道だ。そういう夢だった。医療の正義というのが不思議だと思っている。健康に何がいいか、健康とはどういう状態か、治療とは何なのか、当たり前だが人によって全く異なる。でも医療は力でもある。命や健康を人質にした人を従える強制力でもある。医療の進歩が善意と共にあることをわたしは信じている。緊急医療の価値とそこに至る人々の努力や叡智をもちろん素晴らしいと思う。だが、医療と緊急医療は分けて考えるべきではないか、医療とは、風邪一つ治せない、鬱病患者一人救えないのが医療の本質なのじゃないか、とも思っている。どんなポリシーを持とうと、どこにでも善意の人と悪意の人がいて、どんなポリシーを持とうと、善意の人の善意は善だ。だけど異なるポリシーに、どちらがより優れているとか、劣っているとかは無い。全てが等価で、互いに尊重されるべきだ。医療が出来る範囲を正しく知っている人はいない。正しく知りたい気持ちもない。民間医療が出来る範囲に関しても、そんなことは不可能だ。正しい答えはない。ただ信じるか信じないか。何を信じるか。それが異なる者の間では分かり合えない大きな壁が存在する。だけど、分かり合えなくたっていいじゃないか。分かり合えないということを許容したっていいじゃないか。真実は分からない。ただ、自分にとって、心地よい、可能性を感じる、苦しくない、違和感が無い、ほっとする、エネルギーを感じる、身体の声に耳をすます、実に単純な、シンプルな、ただの体感、あるいは直感、こそにしか、自分の魂に通じる軸になるものは無い。それはあらゆる理屈を超える。わたしの望みはただ、身体の望まないことはしたくない。わたしにはずっと、重い話、望まない会話から逃げる癖があった。心を窒息させて、反射だけで会話をする癖。そしてそういう時はいつでも望まない結果にいつまでもくよくよした。わたしはこの先、健康や命を人質に取られて望まない選択を強制されそうになっても、直感を信じる。それしか、自分が自分に、自分が新しい命に責任を持つ事が出来ない。