| 20141228 |

 暖炉の前の、身体の表面が暖かく、穏やかで広い海のような、薪の香りに心の底の方が軽く興奮するようなでも、全体としては落ち着いた感じ。外でにぎやかな声が聞こえて、身体を動かす分量と、のんびり落ち着く分量がちょうど良くて、家の中に人が沢山いても色んなことが滞り無くうまく分担されていてスムーズな感じ。毎日ごはんがおいしくて、窓を開ければ森の匂いがして、海辺に行くと暖かい水に足を浸せる。コップから水が溢れるように、たくさんの豊かさを受け取りきれないくらいに受け取って、瑞々しく、頭の中の難しいことはどんどん道端に捨てていって、心を開いて空気を吸う。幸せなイメージはイメージの中だけで、遠くて手の届かない、憧れて、目の前の望まざる現実をやり過ごす為の、希望の灯台のような、シンボル、だと思っていたけれど、そのイメージが人々の共通の幸せのイメージ(とりあえずわたしにとっては)であるのは、誰かが実際に現実にそう過ごしていたからで、全く実現可能な、実現可能であることを全く諦める必要の無いものだった。「それはシンボルに留めて実現させようとしてはいけない、それは競争に負ける、社会的ポジションを失う、人間関係の中の安定したポジションを失う、リスクが大きすぎるから」。幸せなイメージの方に自分を近づけてはいけない、それは甘い甘すぎる飴玉のようなもので、今自分のいる都会の日常の中に、爪楊枝の先くらいの、隣の家の垣根に花が咲いたとか、受付の可愛い女の子がにこっとしてくれたとか、夜景の見える話題のレストランでディナーを食べたとか、欲しかったブランドの鞄を手に入れるとか、努力して獲得して、仕舞っておいて、そのビーズのような小さなキラキラを時々出して並べて眺める、それで満足しなくちゃいけないんだ、コップに溢れても溢れても注がれるようなものでなく。人生のどこかの段階で刷り込まれた、本当に心から安らぎ、本当に心から楽しみ、魂が求めているものと現実が手を取り合ってダンスをしているような、世界が広く深く進んで行く感じを追い求めるのを、制限して、そうしたくなっても誤摩化して、とにかく遠く遠くに置いて実現しようとしないようにさせる心の動きは…ある段階からは自分が自分にかけている縛りで、制限し続けるのも解くのも自分次第、縛っているのは自分自身だった。世話をした愛する人が巣立つ時、
「私にとって……ほんとうの愛っていうのは」「私の人生を返してって思うこともなく、毎月の三十万がなかったらどうするの? という気持ちも全く頭をよぎらず、淋しいからいて、って引き留めるのでもなく、『いいよ、そうしなよ』って言ってあげられることなんです。」
これが自分に出来ると思うのはきれいごとかもしれないが、そこを目指す、というのはきれいごとではないと思う。わたしは「愛というのが何か解りたい」というのが人生のテーマだった。それを、パートナーと、親と、子供と、色んな人間関係から学んでいくのがわたしの人生だ。そこに愛の不在を見つけたら、それは悲しいことではなく、何かに気付いて、何かが解る、わたしのテーマを大きく進める大切な出来事なのだと思いたい。