| 20150121 |


 わたしもYくんも、夫婦して今パウロ・コエーリョを読んでいる。彼は「星の巡礼」、わたしは「ザーヒル」。いいよってずっと前から言ってるのにまったく頭に入ってこなかったそうで、それが今、どんどん内容が頭に入ってくるのだそう。そしてその理解も、わたしよりずっと深そう、なんか…悔しい…を通り越して、畏敬の念。いいことだ。赤ちゃんのいる生活が、こんなに穏やかなものとは思っていなかった。赤ちゃんの性格によるのだろうけど。そして赤ちゃんはそれぞれひとりずつ、全く違うんだなあ、違うんだろうなあと思った。親になるということは、自分が作った「親たるもの」という檻に小さく小さく自分を押し込めようとすることをしなければ、「親たるもの」の「べきべからず」をどんどん忘れて、捨て去って、自分に正直にニュートラルな状態でいられればいられるほど、自分の中に新しい部分がどんどん生まれ直している。ふっと心弱く、「安心安全」の知った道を行こうとする、疲れから、迷いから、不安から、与えられた、教えられた、使い古された教義を、そこをぐっとこらえて、今の地球を踏みしめる、目の前の存在と生まれ直す、毎瞬毎瞬、だんだん上手に、早く、「あの感じ」が取り戻る、まっさらな生まれて初めて見るものを見るように、感じた「感じ」が何も無い草原に一瞬で広がっていくように。赤ちゃんと接するとは、まったく自分の魂と出会っているようなものだ。ことばのない生き物。自分の一番きれいな部分をささげるようなことだ。疲れて、眠くて、辛そうな表情、辛そうにに泣いているのを少し見ない振りをしたりする、ことばがなければ気付かない振りだって分からない振りだってできるのだ、が、それをぞんざいに扱うとき、それは自分の魂の一番きれいな部分をぞんざいにしているのと同じ事なのだと思った。仮にことばがあったとしても、大人より小さな子供の苦痛を、力でねじ伏せて全く存在しないように扱い思い通りにしようとするとき、それは自分の魂の大切なか弱く純粋な光り輝く部分を、捻り千切るようなものなのだ。「こう生きねばならない」ものはもうないのだ。大人が価値のあることをもう教えられなくなっているのだ。かつて自由を求めて戦って、負けて、飼い馴らされてしまった、もう吠える事は無くなった、テレビと給与と暗黙のルールに自分自身を明け渡してしまった大人から、自由になってくれ、自分自身と出会って、自分自身を生きてくれ、わたしもそうする。