| 20150211 |


 寝る前にけんかして、夜あかちゃんのお世話で起きる度にいらいらする。朝起きてとっても空腹だったので、一人でホットケーキを焼いて食べたらすっと落ち着いた。妊娠中、あかちゃんの為に世の中のネガティブなニュースは受け取らないようにしていて、産んだ後もそう、あかちゃんと二人きりで過ごす日中の為に自分と接点の無い知らない人のネガティブなニュースを受け取らないようにしている、意識的にじゃないと思う、無意識で。世の中のネガティブなニュースを見聞きして、心を痛めて、自分がその人達に何か出来るか?出来ないと思う。人を変えられるか?社会を?世界を?出来ないと思う。いや出来るのか?多分知らないマスの人々じゃなくて、目の前のあかちゃんが抑圧された状態にならないように、自分がニュートラルで接せられるように、それが今自分の中で最重要なところにランクされているんだろう。どんどん論理的にしゃべる能力が落ちている、全然うまく話せない、伝えられない。獰猛で、野蛮で、理屈じゃない、感覚的で理由はいらない、本能的になっている、産後の猫みたいに。第六感…とまではいかないにしても、五感がアクティブになってあかちゃんの気配とか、空気とか温度とか、あかちゃんに近づく他人とかにセンシティブになっているのだ。そして「NO!」と思う時のそれはまったく理屈じゃないし理不尽だし感情的だし、だけどどうだっていいのだ、それがなんであれ、「NO」と言っている、本能が。そういう状態に疲れるのだ、そういう新しい状態に自分で居続ける事に、感覚が研ぎすまされて振り回されている状態に、寝ていても起きているような状態に、そして産後の猫みたいな状態で社会の一員を装って、とどこおりない、特筆するものの無い、平凡で理性的な一員を振る舞う事に。そういう時、「都会生活はくるしいなあ」と思う。自分の中の野生が肯定されないから。だからって田舎に住んだ事があるわけじゃないんだけど、でも「社会」の中に人と対峙しないエリアがあって、それが「自然」で、社会の中に自然が内包されているのが本当の意味で「社会」で、いや、むしろ逆なのか…?自然(ネイチャー)が社会を内包しているのが自然(ナチュラル)なのか?そして許されたいと思う。自分が野性的で感覚がセンシティブな状態であることを、もうちょっと木が生えてて、もうちょっと土があって、もうちょっと出来たての空気の、つまり自然の中で。人を見て焦ったり嫉妬したりする時、ある人には全然、ある人にはとっても、でもYくんが焦ったり嫉妬したりする対象には、わたしは全然。彼がそうじゃない人にはわたしはとっても。なんだろうこれ?そこにどんな情報が含まれているんだろう。でも人を見て焦ったり嫉妬したりして、それは現状の自分に不満足で、自分に足りてないと感じるものをその人は具体的に持っている、という有り難い存在でしかないんだが、だけどその人にはその人の、自分には自分の必然の流れがあって、今わたしはそっちに行く流れじゃなくて、こっちに行く流れなのだ。もしかしたら今のわたしだって、羨望の相手が見たら焦ったり嫉妬したりを感じるものを持っているかもしれないしね。わたしはあかちゃんを産んだ。それは、こう、進んでいた流れから、こっち、の流れにばーんと飛び込んだような、新しい流れに勢い良く押されているような、とにかく違う流れに乗ったのだ、自分の中に自分と同じくらい別の人を置くことを必要とする流れに。そしてその代わり、わたし自身が何かに集中して、地球に魂を持ったクリエイターとして大きな世界を構築するような提案を世界に対して出来ないかもしれないけど、ひとつの魂に身体を生み出すことを手伝った。それは自分史上最高の、最高の出来の、クリエイトだった、今も続いている、あかちゃんを育てる。