九州にある障害を持つ方の為の施設で、利用者が作るアート作品を職員がサポートしている記事を読む。彼らの作品と作り方を見ていると、彼らは神様とのハーフなんじゃないか、という気がしてくる。アートという作品を作る行為、それが下心無く、欲無く、エゴなく、ただ純粋に行為として、自分の魂の高いところと繋がる為の行為として、自分を取り巻く世界とダンスを踊るような行為だとして、それは祈りに近い、瞑想に近い、神事に近い、波動の高い行為なんだと思う、そして本当は人は誰であれ、そういう行為の時間を欲しているはずだ、自分はアートと無縁だと考える人であっても。ADHDだとか、ADHDは無いだとか、だが確実に抑圧されたヒトの完全な魂を持つ子供たちのエネルギーが、ギシギシと悲鳴をあげていて、それが目に見える形で名前がついたのがそれなんだろう、走り回るのも、叫ぶのも、衝動的な行為も、今悲鳴を上げて死にかけてるんだよ、目の前で、あなたの子供の魂が。障害をもつ方達がひたむきに行為に没頭するエネルギーが、それが特殊なものか?といえば、それは本来人が持っているものだと考える。ではいつ無くしてしまうのか?産まれたときは完全な形で持っているそれを?それは自立した社会人になる為の教育を受けて、自立した社会人として生きる能力と引き換えに、つまり障害を持つ彼らが持っていないものと引き換えに手放して行くのだ、電源を切るように、諦めて行くのだ、使われない、使うべきでない回路を閉ざして行くのだ。自分では知っている、その時に、魂が抵抗するのを、その度に軋んで悲鳴を上げるのを、繋がる希望を捨てきれずに、本当は愛するべき自分の魂の存在に気付いてくれるのを期待してノックし続けるのを。そんなに誰もに、学校教育が目指しているように、経済活動に加わるための能力が必要だろうか?人一人食わして行く為の?経済能力の無い、だが神様と繋がれる行為に没頭できる能力を持つ人がいて、そういう人をサポート出来る、マネージ能力のある人がいればいいのでは?そういう補完の仕方もあり得るのでは?どちらも魂を損なわずに、適したことを適した能力で生きていく事が。「そんなことはない。学校教育だって、子供たちの創作活動を育てる努力をしている」と言う人もいるかもしれない。だけど実際学校で行われているのは、体育館の床を丸めた紙でいっぱいにするようなクリエイティビティではなくてA3一枚の画用紙に収まる範囲のクリエイティビティなのだ。それは矯正というのでは?人が地球を選んで生まれ、その魂のテーマに沿った学びをする為にどういう教育が適切か。わたしと、家族とは、今年東京を離れて西の島へ移住することになった。その島には高校があるという。そこは未来の日本をつくる場所だ。大変な責任なのだ、そこで行われる事は、我々親の、我々大人の。
九州にある障害を持つ方の為の施設で、利用者が作るアート作品を職員がサポートしている記事を読む。彼らの作品と作り方を見ていると、彼らは神様とのハーフなんじゃないか、という気がしてくる。アートという作品を作る行為、それが下心無く、欲無く、エゴなく、ただ純粋に行為として、自分の魂の高いところと繋がる為の行為として、自分を取り巻く世界とダンスを踊るような行為だとして、それは祈りに近い、瞑想に近い、神事に近い、波動の高い行為なんだと思う、そして本当は人は誰であれ、そういう行為の時間を欲しているはずだ、自分はアートと無縁だと考える人であっても。ADHDだとか、ADHDは無いだとか、だが確実に抑圧されたヒトの完全な魂を持つ子供たちのエネルギーが、ギシギシと悲鳴をあげていて、それが目に見える形で名前がついたのがそれなんだろう、走り回るのも、叫ぶのも、衝動的な行為も、今悲鳴を上げて死にかけてるんだよ、目の前で、あなたの子供の魂が。障害をもつ方達がひたむきに行為に没頭するエネルギーが、それが特殊なものか?といえば、それは本来人が持っているものだと考える。ではいつ無くしてしまうのか?産まれたときは完全な形で持っているそれを?それは自立した社会人になる為の教育を受けて、自立した社会人として生きる能力と引き換えに、つまり障害を持つ彼らが持っていないものと引き換えに手放して行くのだ、電源を切るように、諦めて行くのだ、使われない、使うべきでない回路を閉ざして行くのだ。自分では知っている、その時に、魂が抵抗するのを、その度に軋んで悲鳴を上げるのを、繋がる希望を捨てきれずに、本当は愛するべき自分の魂の存在に気付いてくれるのを期待してノックし続けるのを。そんなに誰もに、学校教育が目指しているように、経済活動に加わるための能力が必要だろうか?人一人食わして行く為の?経済能力の無い、だが神様と繋がれる行為に没頭できる能力を持つ人がいて、そういう人をサポート出来る、マネージ能力のある人がいればいいのでは?そういう補完の仕方もあり得るのでは?どちらも魂を損なわずに、適したことを適した能力で生きていく事が。「そんなことはない。学校教育だって、子供たちの創作活動を育てる努力をしている」と言う人もいるかもしれない。だけど実際学校で行われているのは、体育館の床を丸めた紙でいっぱいにするようなクリエイティビティではなくてA3一枚の画用紙に収まる範囲のクリエイティビティなのだ。それは矯正というのでは?人が地球を選んで生まれ、その魂のテーマに沿った学びをする為にどういう教育が適切か。わたしと、家族とは、今年東京を離れて西の島へ移住することになった。その島には高校があるという。そこは未来の日本をつくる場所だ。大変な責任なのだ、そこで行われる事は、我々親の、我々大人の。