| 20160506 |


わたしの真実はわたしの宝物。そうそう、おいっしい白ビールに、Yくんが育てた酵母のパンに、ラズベリージャムを乗せてギョーム・ド・マショーを聞いているとき、なんだか恐ろしくしっくり来て、わたしは修道士だったのかな?と思った。フランスの?なんつって。こういうときコーヒーじゃないね、白ビール…でもなぜ?違和感が無いし懐かしい感じ、「ご飯とみそ汁」くらいに。変だなと思ったけどやたらその組み合わせは修道士っぽい。自然と調和して自給自足したいし、畑して保存食作って、朝昼晩歌って、学問して、きっとわたしは満足するだろう、そいういう時があったのかもしれないなあ。寝入りばな、ふと過去のシーンを思い出す。先月はそういう日が何日か続いた。思い出さないようにしていた、思い出したくない出来事。辛いネガティブな感情のよどみの中にいた自分を追体験しているかのように周りの景色や人物や台詞が立ち上がって、多分これまではわたしは、それをすぐに記憶の隅に追いやって戸を閉めていたと思う。でも何故かこれまでみたいに追い払う気にならなくて、それらの過去の自分と環境を俯瞰して見直していた。いつ頃からか、ちょっとした行き詰まり、迷い、プレッシャーに対して、それが困難な壁のように感じるのでなく、すっと深呼吸して直感で、感覚に自分のすべきことをゆだねるチャレンジをするチャンスのように感じるようになってきていた。その感覚で過去を追体験したとき、寝入りばなにふーっと過去のシーンが現れて、まさしくトラウマになっているその瞬間の自分に、愛をばーっと送っていた。過去でわたしは愛と肯定に包まれて、その時自分に起こっていたことと、当時の周囲の人の意図と、自分がなぜああいう振る舞いをしたのかが違う次元で見えてくる。なんて必死だったんだろう。混乱している、可哀想に。間違った対応、間違った態度だったと思っていたものが、間違っていないし、それがむしろ良かったんだと知る。自分の心模様も他人の心模様も理解されて、色々なことが腑に落ちる。その場に居合わせた他の人たちにも愛を送る。向き合うのが辛かったはずの過去が、愛おしい自分を構成する一要素になる。過去を再構築する時間。そうか、辛い過去をありありと思い出すのは、ポジティブな記憶に変換出来るチャンスなのだと知る。今日は家族でお出かけして、オラクルカードのようなものを購入。今抱えているちょっとした疑問を日本の神様に聞いてみた。まだ花の咲いていない、すっと伸びた細い枝に、黄緑色の若芽が芽吹いているようなわたしの状態は、それはそれで美しいと思った。そのこれから伸びる様子と、ぴかぴかの新緑は、きっと見えている人にはさっと良い香りの風を感じるような、清々しく愛らしいものだと思った。