アートにクライアントが居る場合、「+α」を付けると満足度が上がるというのはわたしが若かりし頃に教わったことで、クライアントが明言していない、要求していない「+α」をこちらが提案して、それを組み込んで完成させたものを提供する。2つ以上の脳がブレンドされて初めて、1つの脳が出来ることよりも、ひとつ次元の高いクリエイションになる。それは他者がいる意味を感じる行為でもある。デザインがアートの手法を多分に借りている以上、アートとデザインの線引きが分からなくなるのは仕方の無いことだけど、デザインには目的がある。その目的が無くても成立している場合、そのデザインはアートと呼べるのじゃないかな。「成立」って、また、定義が難しいのだけれど。アートが社会の批判をする役割を持つのは近代のお話じゃないかな?と思うけど、なぜそういう性質を持つんだろうと考えたとき、まずデザインには目的がある、それは資本がより資本を生むためのツールとして非常に利用価値が高いということであると思うの。アーティストは、魂の抑圧に敏感な人種だ。目に見えない魂というものの動きの自由度を制限されていると、それを体の不調や痛みにして感じるような敏感な人種だ。だから、資本が魂を飼い殺そうとする時代には、資本が人の人生の一番盛り上がる時間の全てを資本が資本を生む為の労働力に変換させようとする時代には、カウンターや警鐘の役割を請け負ってしまって、作品は人々の、現存の価値観や固定観念や集合意識に対して思考停止して魂の声を感じなくなってしまっている人々の、ハートをノックする、というようなことになる。そこが違うのかなあと思う、資本の位置なのか魂の位置なのか、立っている位置が違うのだ。ところで、デザインというと思い出すワードがあって、それは「職人」です。生活の道具や家具を作る、木工作家や、漆や和紙などの職人など。同じようなものを作る人はアーティストにもいるのに、彼らに会って圧倒的な「生」「生活」「生きること」に対する肯定感を感じて、その肯定感に驚いて、そして安心して、わたしは彼らの近くにいると本当に心地が良かったのでした。生活の道具、毎日の営み、家族と、自分が、心地良く過ごせるように、時間の質が高まるように、そのルーティンに対する肯定感と愛、だからそういう物に囲まれて暮らすのは、愛に包まれて暮らすようなものなんですよ。ああいう人たちは、心の澱を除く訓練をしている。もしくは物を作る事に向き合って行くと除かれていくのかもしれない。そしてその中にはデザインがある。その対象はなんだろうか?誰の為の?自分の、ユーザーの、あるいは自分をひっくるめた細い糸で繋がっている人々「マス」に共通して保持されている「本質的ななにか」に寄り添うカタチである。小説家の人も言っていたな、「深いところにくぐって、書くべき事を拾いながら島から島へたどっていくと、そこには必ず同じ経験をたどって来た人たちがいる。その人たちに通じるように書いている」。それは自分の魂を通じて、愛情という回路を使って、広いところにある「人の本質と呼べるもの」に対してモノを作る、プレゼントし続ける、繰り返し生み出す、その愛の世界に返答する行為のように見える。そしてつまり、アートっていうのはエンターテイメントだと思う。魂の遊び場。それでもって、例えば魂の凝っているところがほぐされて少し動きが良くなるというような…、ちょっと元気が無いのがサプリのように力を取り戻すというような…。
アートにクライアントが居る場合、「+α」を付けると満足度が上がるというのはわたしが若かりし頃に教わったことで、クライアントが明言していない、要求していない「+α」をこちらが提案して、それを組み込んで完成させたものを提供する。2つ以上の脳がブレンドされて初めて、1つの脳が出来ることよりも、ひとつ次元の高いクリエイションになる。それは他者がいる意味を感じる行為でもある。デザインがアートの手法を多分に借りている以上、アートとデザインの線引きが分からなくなるのは仕方の無いことだけど、デザインには目的がある。その目的が無くても成立している場合、そのデザインはアートと呼べるのじゃないかな。「成立」って、また、定義が難しいのだけれど。アートが社会の批判をする役割を持つのは近代のお話じゃないかな?と思うけど、なぜそういう性質を持つんだろうと考えたとき、まずデザインには目的がある、それは資本がより資本を生むためのツールとして非常に利用価値が高いということであると思うの。アーティストは、魂の抑圧に敏感な人種だ。目に見えない魂というものの動きの自由度を制限されていると、それを体の不調や痛みにして感じるような敏感な人種だ。だから、資本が魂を飼い殺そうとする時代には、資本が人の人生の一番盛り上がる時間の全てを資本が資本を生む為の労働力に変換させようとする時代には、カウンターや警鐘の役割を請け負ってしまって、作品は人々の、現存の価値観や固定観念や集合意識に対して思考停止して魂の声を感じなくなってしまっている人々の、ハートをノックする、というようなことになる。そこが違うのかなあと思う、資本の位置なのか魂の位置なのか、立っている位置が違うのだ。ところで、デザインというと思い出すワードがあって、それは「職人」です。生活の道具や家具を作る、木工作家や、漆や和紙などの職人など。同じようなものを作る人はアーティストにもいるのに、彼らに会って圧倒的な「生」「生活」「生きること」に対する肯定感を感じて、その肯定感に驚いて、そして安心して、わたしは彼らの近くにいると本当に心地が良かったのでした。生活の道具、毎日の営み、家族と、自分が、心地良く過ごせるように、時間の質が高まるように、そのルーティンに対する肯定感と愛、だからそういう物に囲まれて暮らすのは、愛に包まれて暮らすようなものなんですよ。ああいう人たちは、心の澱を除く訓練をしている。もしくは物を作る事に向き合って行くと除かれていくのかもしれない。そしてその中にはデザインがある。その対象はなんだろうか?誰の為の?自分の、ユーザーの、あるいは自分をひっくるめた細い糸で繋がっている人々「マス」に共通して保持されている「本質的ななにか」に寄り添うカタチである。小説家の人も言っていたな、「深いところにくぐって、書くべき事を拾いながら島から島へたどっていくと、そこには必ず同じ経験をたどって来た人たちがいる。その人たちに通じるように書いている」。それは自分の魂を通じて、愛情という回路を使って、広いところにある「人の本質と呼べるもの」に対してモノを作る、プレゼントし続ける、繰り返し生み出す、その愛の世界に返答する行為のように見える。そしてつまり、アートっていうのはエンターテイメントだと思う。魂の遊び場。それでもって、例えば魂の凝っているところがほぐされて少し動きが良くなるというような…、ちょっと元気が無いのがサプリのように力を取り戻すというような…。