| 20180228 |


 久しぶりの一人で訪れた東京は、想像していなかった解にあふれていた。瞳に描かれた幸福、承認欲求の不満足、孤独、暗さ、安心。働く若い人たちの、どうあってもポジティブなエネルギー、この星の可能性そのものみたいな。一番驚いたのは、自分の男の人に対する見え方…。それはわたしが結婚していて、子供もいて、女のショーケースから降りているからこそ、そう良く見えたのかも、都市そのものが広い広い合コン会場のようだった…ただただ個!個の駆け引き、計算、寂しさ、承認欲求、セルフイメージ、それが個対個で行われ続けている、年齢に関係なく…。島では、自分の味方はチームだったり、コミュニティだったり、自分自身だったり、有機的なイメージで、その共通項は、口ではどう言っても根っこのところでは島の自然に感謝している、という土地に属しているものだから、強度に信頼を感じる。島の男の人たちは、誰かのお父さんでありおじいちゃんであり、単に若者がいなくて出会う人が大人だってこともあるが、だからもう、とても優しい。わたしはこの、友達か、兄貴的な感じか、おじいちゃん的な感じに、日常守られていることに、大変安心して過ごしているんだなあ!と思って、それって自分のパーソナリティーの質上(というか多分全ての女の子にとっても?)とても幸せなことなんじゃないだろうか。都会はファミリーって感じが希薄で、オスとメスの世界ってことかな?わぁ簡単!それでも我が身の成長した点としては、働く若い子たちを見たときに、今ここにいる背景に、彼らが育った家庭があって、故郷があるという当たり前のことに、今やっとリアリティがあるということなのです。久しぶりに一人で満員電車に乗って、「お荷物、お体、強く!強く!お引きください!!」と言われているとき、自分のスーツケースが座っているわたしの足にぐいぐい当たる痛みを感じながら「奴隷船ってこんな感じだったのかな」と思って、過酷さの度合いで全然違うことは知っているんだけど、満員電車くらいで「奴隷船」のワードが出てきた自分が新鮮だったのだ。多分わたしは、東京にいた頃、「人は(自分も)モノじゃない」と本当には信じていなかったし、マニュアルをこなす人を「本当にそこに存在している」と感じていなかったような気がする。それを変えることができたのは、わたしが島で暮らし始めて、「わたし」という魂が、体を使って、日々日常周囲の人に認識されている、という実感が、「自分がモノじゃない」という感覚を育ててくれたからなのじゃないだろうか。この土地は、お日さまも、空気も、山も、海も、毎日惜しみなく、そこにいるだけでただただ無条件にきれいな光のつぶつぶを、たくさん与えてくれるのだ。子供の体と感受性が、マークシートや、人混みや、満員電車や、痴漢や、つまり名前のないものとして扱われること、友人たちが病んでいくことなんかで少しずつ殺していったアンテナや皮膚感覚を、人を人と思う感受性を、もう一度育てることにわたしはちゃんと成功しているんだと思った。