| 20180420 |


 今日は3つの話。1。アート活動をしていて自分が満足するするような評価を周囲から与えられる人ってのはなかなか多くないと思うし、評価されたくてされないまま生きる人はたくさんいると思う。それでも、わたしは音楽が祈りに通じているものだと思っているから、音楽という磁場には救いがあると思っている。アートをする人、それはダイバー。ダイバー説というのを最近考えているんですよ。不幸や苦しみを体験する深いところまで落ちて、そして戻ってきて、言語や言語以外のもので表現する人たち。どんな人もそれぞれその人だけの体験をしていているので、アートをする人たちが特別な体験をしているというわけじゃない。でも、ただ、そこから戻ってきて、それを表現するツールを集めて纏めて、「そこから戻ってきた」ということを存在で証明してくれる人たち。痛みを体験をした人たちにとって、生きて、戻ってきて、「わたしもそれを見たよ」と声をかけてくれる存在。福島の事故や、沖縄の基地や、どうして音楽の人やアートの人が、他のジャンルより反応するのだろう? やっぱり、「それが痛い」ということが分かるからだからだろう。そして「それが痛い」ということを表現出来るレベルまで戻って来れる。見ないふりもせず、無かったことにもせず、深いところに囚われたままいるのでなく、人が向き合えない、逃げてしまう深さの闇に、潜って生きて戻って来るということを何度も何度も繰り返している、プロのダイバーなんだ、とわたしは思っている。2。娘が他の大人と関わっているのを見て、これから社会で出会う人の中では無条件のギフトをくれない人の方が普通なこと、わたしは無条件で存在を肯定し続けようと思いながら彼女を産んだこと、それが彼女に対してわたしが出来る最大のギフトであると知っているからである、そしてそれは、わたしが知りたいことを学べるためのきちんと仕組まれた仕組みの中にいたからだった、だから何かに怒ったり、悲しんだりするのがわたしに必要なことなのではなくて、今の自分を「知っている」状態にセッティングしてくれた過去の全ての条件に感謝だ、という感覚が出来事から3ヶ月経って突然降ってきた。3。男性が年齢に関係なく男性として見られたがっているようだ、ということと、それはわたしのパートナーだって同じであるらしいのを見つけて、多分いくつになっても男性は女性から優しくしてほしいし、応援してほしいし、慰めてほしいし、頼れると思ってほしいのだろう。わたしは女子校で育ったからか、出会った人たちが幸運にも概ね紳士的な男性ばかりだったからか、男性からエゴイスティックにメスとして見られることがアクシデント的にいくつかあったくらいで、基本的に対応能力がない。しかも男性に対して冷たくシャットアウトしても、攻撃的でも、身体能力で相手が勝っているから構わないとどこかで思っているのである。この、男性に対してのエゴイズム…これは何なんだ?かつ、自分が中性的でいるのが好みで、そういう距離感が好みで、人として魅力的だと思われたい、という中に女として魅力的だと思われたいという瞬間が混ざる時があり、結果なんとなく自分でもわかっているのだけど時々変な場所にぽっかり隙があって、対応力がないのにバランスが悪い。ところがここ数ヶ月、なんだかその自分の中の「女というもの」が可愛らしいような気がするのだ。本能みたいな、抗いがたい、自覚する前からそこにあっちゃってるみたいな、ものが、実際の行動になると、媚びたり嘘ついたり虚勢だったり、自分が傷つかないために相手を傷つけたりだとか、自分が弱いとエゴイスティックな行動ににつながってしまう向き合いたくないような何か、阿保さ、間抜けな、が、大人になった今手のひらに乗せて眺めてみると、なんだ?このむき出しの、ピュアなエネルギー?「生きてる!」って感じで可愛いのだ。一体どこから出て来るんだ?大人になるっていいものだなあ。自分史上かつてない程ずっと落ち着いて見られるし、もっと見たいと思うし、何なら若い人たちの中のエネルギーも眺めてみたい。きっと、ピュアなエネルギーを大切に大切に扱うことでそれを包んでいる自分が真から育つんじゃないかな?そんなことを思いながら思春期を横から見てみたい。と、厄年になってようやっと自分のメスを肯定するステップまでやってきたのだ。「女性」「らしさ」「アンチ」の英才(?)女性教育の影響が、今ほど基礎から解けたみたい。3つの話ともあまり共通点がないけれど、ここにうっすらと共通するものがわたしの全行動のテーマなんであるよ、お店を始めるのも、そこで働くのも、それを知りたいということが。「自分が女性であること」「性別を超越するもの」「無条件のギフト」。おそらく。