年始はこんまりさんの海外の片付けドキュメンタリーを見てぼろぼろ泣き、昨年からハマりだした韓国のアイドルグループのバックステージビデオなどで感涙し、BANANA FISHのアニメ化されているのを見て感心し、特にBANANA FISHは原作に対する愛とリスペクトをすごく感じたなあ!わたしが原作を読んだのは確か中学3年生だったろうか、クラスで回し読みしてたのだった。それっきり読んでないから正確には覚えていないはずだけど、ところどころ妙にセリフを覚えていたりして。アニメ化に正解はないと思うけれど、原作より原作のように感じる一瞬があったりして、やっぱり愛があるから素晴らしく感じたんだろうな、なんだか懐かしく良い体験だった。学生ってなんだろう。自分の人生に意味を見出したら、そして学校の目的に気づいてしまったら学校なんて辞めざるを得ない。社会の中で一番刑務所に似ていると言われる構造の施設で、あまりに長い期間「社会と隔絶」していて下さいと要求され、ある時点で突然もう既に出来上がったルールの中にぽーんと放り込まれる。そのルールを誰が?いつゲームに参加すると?と、15歳のグレタ・トゥーンベリさんのスピーチを聞いていて思った。思い出すなあ、駅から学校までのコンクリートの道、高架下沿いの、なんだかお店や会社が入った、延々と、毎日遅刻してたので、一人で自分の靴の音だけを聞いて、登下校時間がずれるだけで、遅い午前に街中を歩いていると全てのものから黙殺されている感じ。大学を卒業して、仕事をし始めた頃。稽古場で、自分の頭の声しか聞こえない感じ。仕事場に向かう時の、都心を駅からてくてく遠くまで、一人で、自分にしがみつくように歩く。わたしがわたしであることを必要とされていない、情緒や美しさの対極にあるような幹線道路の広い歩道の続く感じ、自分とは関係のない店々、いっつも時間に遅れそうになって、いっつもおでこに血が集まっているような、そこに向かう、だけどわたしの代わりはいつでもいる。歩いている、だけどおままごとみたいだ、今見ている目の前の世界の中に、わたしはぱちっと嵌らないし、わたしがぱちっと嵌る場所もない。通り過ぎるだけ。何年通っても知らない街。だけど歩かなくてはならない、だってわたしはそのルールでゲームに参加すると約束してしまったから。冬。夕暮れ前車を降りて、子供の頃キャンプ場で嗅いだのと同じ空気の匂い。夜、見上げて星がばりばり輝いている満天。今、自分は自分に満足している。子供がいて、優先順位ががばっと変ったら、ぽーんと自分のことは開け放してしまえる。だから、心から、目の前にいる人が幸せでいてくれ、と思える。自分に使える魔法なら惜しみなく使う。お店で出会うお客さんに、多分ちゃんと、今の自分は言葉の魔法を使えている。ビールを飲みながら若い頃の飲み会の色々なシーンを思い出し、居酒屋の個室の照明、照らされた手元の距離感、会話、打算、自分が自分のことで頭がいっぱいで、自分が他人にどう見られるかということについて七転八倒し、そうか、そういうシーンは、もう自分の人生のなかに起きないんだ通り過ぎたから、と気がつく。それはとっても、心からの安心。そうか、名前の付かない柔らかい部分が削れていったんだ、街と街を歩く自分の間で。今は、町の中に立って、息を吸い込めば、つんと透き通ってこんなにも潤った空気が、体にぴたぴたに満ちる。あっちのわさわさした山のシルエットや、静かな鳥たちの嘶きが、内側から満たしてくれる、後から後から。見返りなく。森から生まれて、まだ何の匂いも付いていない空気。そんなの、こちらの人たちは当たり前にどこにでもあるものだと思っているだろうか?人々が、役割の仮面でなく駆け引きでなく本質的な部分で言葉を発している関係を、当たり前のことだと思っているだろうか。そういうのが当たり前にあることが本来当たり前なんであると、そういうものが当たり前にある環境を夢想して、やっとわたしが考える本来に戻った、4年目が終わりに向かっている。
年始はこんまりさんの海外の片付けドキュメンタリーを見てぼろぼろ泣き、昨年からハマりだした韓国のアイドルグループのバックステージビデオなどで感涙し、BANANA FISHのアニメ化されているのを見て感心し、特にBANANA FISHは原作に対する愛とリスペクトをすごく感じたなあ!わたしが原作を読んだのは確か中学3年生だったろうか、クラスで回し読みしてたのだった。それっきり読んでないから正確には覚えていないはずだけど、ところどころ妙にセリフを覚えていたりして。アニメ化に正解はないと思うけれど、原作より原作のように感じる一瞬があったりして、やっぱり愛があるから素晴らしく感じたんだろうな、なんだか懐かしく良い体験だった。学生ってなんだろう。自分の人生に意味を見出したら、そして学校の目的に気づいてしまったら学校なんて辞めざるを得ない。社会の中で一番刑務所に似ていると言われる構造の施設で、あまりに長い期間「社会と隔絶」していて下さいと要求され、ある時点で突然もう既に出来上がったルールの中にぽーんと放り込まれる。そのルールを誰が?いつゲームに参加すると?と、15歳のグレタ・トゥーンベリさんのスピーチを聞いていて思った。思い出すなあ、駅から学校までのコンクリートの道、高架下沿いの、なんだかお店や会社が入った、延々と、毎日遅刻してたので、一人で自分の靴の音だけを聞いて、登下校時間がずれるだけで、遅い午前に街中を歩いていると全てのものから黙殺されている感じ。大学を卒業して、仕事をし始めた頃。稽古場で、自分の頭の声しか聞こえない感じ。仕事場に向かう時の、都心を駅からてくてく遠くまで、一人で、自分にしがみつくように歩く。わたしがわたしであることを必要とされていない、情緒や美しさの対極にあるような幹線道路の広い歩道の続く感じ、自分とは関係のない店々、いっつも時間に遅れそうになって、いっつもおでこに血が集まっているような、そこに向かう、だけどわたしの代わりはいつでもいる。歩いている、だけどおままごとみたいだ、今見ている目の前の世界の中に、わたしはぱちっと嵌らないし、わたしがぱちっと嵌る場所もない。通り過ぎるだけ。何年通っても知らない街。だけど歩かなくてはならない、だってわたしはそのルールでゲームに参加すると約束してしまったから。冬。夕暮れ前車を降りて、子供の頃キャンプ場で嗅いだのと同じ空気の匂い。夜、見上げて星がばりばり輝いている満天。今、自分は自分に満足している。子供がいて、優先順位ががばっと変ったら、ぽーんと自分のことは開け放してしまえる。だから、心から、目の前にいる人が幸せでいてくれ、と思える。自分に使える魔法なら惜しみなく使う。お店で出会うお客さんに、多分ちゃんと、今の自分は言葉の魔法を使えている。ビールを飲みながら若い頃の飲み会の色々なシーンを思い出し、居酒屋の個室の照明、照らされた手元の距離感、会話、打算、自分が自分のことで頭がいっぱいで、自分が他人にどう見られるかということについて七転八倒し、そうか、そういうシーンは、もう自分の人生のなかに起きないんだ通り過ぎたから、と気がつく。それはとっても、心からの安心。そうか、名前の付かない柔らかい部分が削れていったんだ、街と街を歩く自分の間で。今は、町の中に立って、息を吸い込めば、つんと透き通ってこんなにも潤った空気が、体にぴたぴたに満ちる。あっちのわさわさした山のシルエットや、静かな鳥たちの嘶きが、内側から満たしてくれる、後から後から。見返りなく。森から生まれて、まだ何の匂いも付いていない空気。そんなの、こちらの人たちは当たり前にどこにでもあるものだと思っているだろうか?人々が、役割の仮面でなく駆け引きでなく本質的な部分で言葉を発している関係を、当たり前のことだと思っているだろうか。そういうのが当たり前にあることが本来当たり前なんであると、そういうものが当たり前にある環境を夢想して、やっとわたしが考える本来に戻った、4年目が終わりに向かっている。
