今、頭の中をぱんぱんにして考えていること。否定のエネルギーは消えて無くならない。ジャッジしたものは、終盤必ず、自分と統合することになる。無気力になって自分が消えてしまうようなこと。否定し続けたものを否定し続けるために、それが、根底では自分が欲しているものなのに、それを認めたら全てがひっくり返ってしまうような気がして、認めるくらいだったら自分を小さく消去していく。それがゴールなんだったら悲しすぎるし寂しすぎる。薬でぼんやりさせられているだけなのか。それも他人が望んだ自分なのか。自分が望んだ自分を生きるか。他人が望んだ自分を生きるか。そういうことか…。怒りでもいいじゃん、活力。意地悪な顔もいいじゃん、他人の注視。それも結局、他人が望んだ自分を生きるからそうなるのかな?怒り。意地悪。そうやって受け入れてもらおうとして、そうやって生き残ろうとして、自分の居場所から外れないように、ジャッジして捨てて遠くに押し込んだ、自分の半身。正しくないもの。答えだけで生きられないのが人生なんだ。子供が成功だけするようになんて、させてあげられないのが人生だ。ああそれだ…。学歴社会への違和感と不自然さと嫌悪感。捨てたものは捨てたままでは生きられない。ビバリーヒルズの、高級住宅街と、路地裏のスラム街。見ないふりしても、必ず統合しなければならないタイミングが来る。見たくないもの、不要なものだけ全部、一箇所の区画に押し込んで、それで片付いた気分でいる。ぜ〜〜んぶひっくり返して、ひとつひとつつぶさに自分に取り込まなければならない日が来るんだよ。ああ。そういうことだ。雑に用意された食事と、カビとホコリがこびりついた室内で育ったわたしは、土がスカスカなんだよ。それでも木は育つ。だけど、あるところで成長が止まる。これ以上大きくなるために、大きな葉を茂らすために、大きな実をつけるために、は、栄養の満ちた土に植っている必要がある。義務感でお世話された衣食住じゃなくて、ひとつひとつのプロセスが、自分にとってエネルギーに満ちた行為だから、わたしのためにそれをしたい、という根本的な違い。「しなきゃいけない」から、自分を解放する。
